このブログ記事を読んで、ある意味納得。
顎≠The Stig : 判例に従ってしか動けない人々
この記事に
「日本の法律家ってのは(ごく一部の例外を除いて)
事件を過去の判例に当てはめる以外の議論が許されない人々なのです。」
とあり、さらに、
「実際問題として本当の意味で「過去の判例に適切なものがない」と
判断できるのは最高裁だけなので、本人も薄々「これはちょっと外してるかも
わからないなぁ」と思いつつも、無理やり「似て非なる判例」に当てはめて
類推するしかない(というかそれしか許されない)、というのが実情なんです。」
と書かれている。
法律家とは既存の法律だけですべてを解釈をしようとするのが専門のようだ。
そういうルールなので、それはそれで認めるとして。
過去に、「当てはまるものがない」と法の適用をしなかったこともあったろうに。
その適用できなかった事例をきちんと立法の専門家に渡したのだろうか?
そして、「当てはまるものがない」とすべきものに、既存の法律を「拡大解釈」と
称して無理やり適用していなかっただろうか?
(最高裁しか判断できないのなら最高裁までもっていかなきゃ。)
すでにある法律だけですべてを解決できるわけがないのだから、できないものは
できないと声を大にして表明することも法律家の責務ではないのか?
エンジニアの世界にも「できることとやっていいこととは違う」ということがある。
技術的にそれができるからといってやっていいということにはならない。
技術者の倫理の問題でもある。
法律家も法律の適用が可能だからといって適用していいかどうか、
特に法律が追いついていない分野に関して、現行法律の適用が可能であったとしても
立法時の目的や法益にかなっているのかの判断はしてほしい。
ここから先は妄想だが。
おそらく、法律の適用が可能かどうかの部分は、機械的にできてしまうように
なるのではないかと思う。
前提条件を入力すると適用可能な法律と必要な要件の一覧のパターンが出力される。
あとは、要件を確認して法律が適用可能かどうかを見るだけ。
これは、法律家でなくても可能になるだろう。
であれば、法律家の存在意義は、その法律を適用すべきかどうかの
根本的なところを判断する点になるんじゃないかなぁ、と。